「杜甫 《江南にて李亀年に逢う 》」

今日は杜甫の「江南にて李亀年に逢う」という詩をご紹介します。
杜甫最晩年、770年に亡くなる直前の作といわれています。
安禄山の乱の後、江南を流浪していた杜甫が、770年、花の散る時節に
往年の人気歌手であった李亀年に偶然再会したことを詠んだ詩です。

李亀年とは、唐代の人気歌手の名前です。杜甫が14歳で社交界にデビューした頃、
李亀年は既に有名な歌手として一世を風靡していました。

その李亀年との思いがけない再会は、「恐らく人生最後の感動だったと思います。」と恩師。

《江南にて李亀年に逢う》杜甫

岐王の宅裏、尋常に見る
崔九の堂前幾度か聞く
正に是れ江南の好光景
落花の次節又た君に逢う

※※

意味を見てみましょう。
一句目は岐の国の貴族の邸宅でよく会いましたね。
二句目、(貴族の)崔九さんの堂とは屋敷なので、屋敷の前でも、貴方が歌うのを何度か聞きました。
三句目、四句目は、正に江南の風光明媚な景色の中で花が落ちる季節に、また貴方と再会出来たのですね。

※※

解説
一句目の岐王とは岐の国の貴族ということです。
尋常とは頻繁に、見るは会うと言う意味ですから、貴族の邸宅でよく会いましたね。
崔九とは、崔家の九番目の男子、日本語でいうと九郎さんということです。
こう言う呼び名を排行(はいこう)と言うそうですが、昔は父方の従兄弟は兄弟並みに扱ったので、
九番目の男子なども珍しくなかったのかもしれません。

崔家もやはり貴族の家の苗字です。
唐王朝の華やかなりし頃は、あちこちに呼ばれ、人気歌手として鳴らしていた李亀年も
、天才詩人として14歳から社交界デビューしていた杜甫も、
そして、贅沢を欲しいままにしていた貴族達も、安禄山の乱を機に、王朝と共に没落していったのでした。

長安の都の荒れ果てた様に「国破れて山河あり」「髪が少なくなって簪を挿すこともできない」と
「春望」で嘆いた後、苦難に満ちた流浪の旅を続け、湖南省に漂泊していた頃は、
いよいよ亡くなる前でもあり、身体もすっかり衰えていたのでしょう。

さて、この詩は中国では教科書に載っているほど良く知られ、高く評価されている詩なのだそうですが、
なぜこの詩が杜甫の傑作のうちに入るのか、今一つ理解しにくいところがありますね。

ただ、杜甫の人生の全体像を知っていくことによって、唐王朝の栄枯盛衰と杜甫の人生を
重ね合わせて詠んでいることが分かると、一気に深い味わいを感じられるようになります。

ぱっと読んだだけでは、李亀年や岐王や崔九とよく分からない人名が出てくるし、
一見なんでこれが杜甫の傑作のうちにはいるのかな、なんて思ってしまいます。
しかし、この詩を書いた後、杜甫はいよいよ死んでいくのです。

自分と李亀年の人生と唐王朝の衰退を見事に一致させた傑作と言われると、
なるほど、そうだったのか、と気が付きます。
李亀年も杜甫も落ちぶれ、都を遠く離れた江南(実際には湖南省)で
李亀年に再会することで、杜甫の記憶の中にある華やかな時代の思い出深いシーンが、
次々と脳裏を巡ったことでしょう。
そしてまた、風光明媚な南の地で、よりによって咲き誇った花が落ちる時期に、
思いがけなく、かつて良き時代を共有した人と再会したのです。

一体全体、杜甫は人生の最終章のこの再会をどう受け止めたのでしょうか。
感動の裏にこみ上げてくる様々な想いはいかほどだったのでしょうか。

戦争を知らない私にとっては、役人でもある詩人が兵士として戦場に出たり、
街が焼け野原になったり、家族も連れて、雑草などを食べる飢餓まで味わい流浪の旅をするなど、
想像することしか出来ませんが、そんな杜甫の人生を辿ると、読むだけでも耐えられない様な徒労感を感じます。

58歳で亡くなるとは、今の時代では若すぎますが、杜甫は、もう十二分に時代と共に生ききり、
戦いきった人生だったのだろうと思わずにいられません。

そして、不思議であり、素晴らしいことだと思うのは、
杜甫という人の肉体がこの世から消えて1200年以上経つのに、
杜甫の残した詩を読むと、あたかもまだ私達のすぐ近くに生きているかのような錯覚を覚えることなのです。

江南逢李龟年 杜甫

岐王宅里寻常见
崔九堂前几度闻
正是江南好风景
落花时节又逢君

写真撮影  藤野彰氏
カテゴリー: 漢詩のお部屋

masumi.h

合同会社日中共同クリエイションズ代表。日本中国語教育者育成協会代表責任者。